スタッフ

監督プロフィール

  • 監督
    小林 正樹

1916年2月14日、北海道小樽市の生まれ。女優・田中絹代の又従弟にあたる。青少年時代は映画に強い関心を持つが、早稲田大学では會津八一に師事して哲学科東洋美術を専攻。41年卒業後、映画への思い断ち難く松竹大船撮影所に入所、助監督となる。翌年応召し、関東軍兵士としてソ満国境の警備にあたり、44年フィリピン戦線へ送られるが戦況悪化で沖縄宮古島に上陸、守備につく。飢えと連合軍の空爆、艦砲射撃に耐えて終戦を迎え、沖縄本島の嘉手納捕虜収容所に収容される。そこで劇団を編成し、捕虜慰安の演劇活動を主導する。
46年11月に復員して撮影所に復職。木下惠介監督のもとで6年余、名助監督として木下組を支える。52年に中編『息子の青春』で監督デビューを果たし、56年、BC級戦犯の悲劇を題材とした話題作『壁あつき部屋』で、日本文化人会議の平和文化賞を受賞、社会派作家としても注目された。59年から61年にかけて『人間の條件』六部作を完成し、『第一部・第二部』がヴェネツィア国際映画祭サンジョルジョ賞、イタリア批評家協会パシネッティ賞を受賞した。以後『切腹』(62)『怪談』(65)がそれぞれカンヌ国際映画祭審査員特別賞、『上意討ち 拝領妻始末』(67)がヴェネツィア国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞し、世界的巨匠として確固たる存在となる。71年のカンヌ国際映画祭では、世界で最も功績のあった10人の監督のひとりとして功労賞を受賞した。
69年にA級戦犯広田弘毅を主人公とする劇映画『東京裁判』を企画するも実現に至らず、78年に本作の監督の依頼を受けたことで、これを自身の戦争映画の集大成とした。一方長年の宿願であった、恩師會津八一の美学世界に因む『敦煌』(井上靖原作)の映画化は、製作母体となった大映と脚本内容で折り合わず、83年に無念の降板となった。その2年後、85年に連合赤軍を題材とした『食卓のない家』を撮り、これを遺作とした。1996年10月4日、死去。

スタッフプロフィール

編集
浦岡 敬一(うらおか けいいち)

1930年5月4日、静岡県生まれ。15歳で終戦を下田で迎える。1948年に松竹大船撮影所に入所し、浜村義康の編集助手として小津安二郎監督作品などに就く。59年に始まる小林正樹監督の『人間の條件』六部作から一本立ちし、大島渚監督『青春残酷物語』(60)篠田正浩監督『乾いた湖』(60)など松竹ヌーベルバーグ作品の編集を一手に担い、69年よりフリーとなる。代表作に『智恵子抄』(67)『書を捨てよ町へ出よう』(71)『軍旗はためく下に』(72)『復讐するは我にあり』(79)『帝都物語』(88)『優駿』(89)『結婚』(93)などがあり、多くの名作、話題作100本超の編集を担当。小林監督からの信頼も厚く、同監督作品としては『からみ合い』(62)『化石』(75)『燃える秋』(78)がある。83年に日本映画編集者協会を発足し、初代理事長を務めた。同年の『東京裁判』の編集で、翌84年には映画フィルム編集者として初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞。日本映画学校(現・日本映画大学)では多数の後進の育成にも努めた。2008年死去。第19回日本映画批評家大賞では編集賞にあたる「浦岡敬一賞」を創設。著書に『映画編集とは何か』がある。

  • 西崎 英雄
  • 音楽
    武満 徹(たけみつ とおる)

1930年10月8日、東京市本郷区の生まれ。戦時中は予科練を志望し、敗戦の不安を口にした友人を殴り飛ばすような軍国少年であったが、終戦間際、勤労動員先の飯能でリシュエンヌ・ポワイエのシャンソンの古典《きかせてよ、愛のことば》を聴いて作曲家を志す。戦後清瀬保二に師事し、ほぼ独学で作曲家の道を歩む。51年瀧口修造、湯浅譲二ら共に総合的芸術グループ「実験工房」を結成し、前衛的な創作活動を続ける。50年に楽壇デビューしたピアノ曲《二つのレント》は「音楽以前」と酷評されたが、57年に《弦楽のためのレクエイム》がストラビンスキーに絶賛され、一躍世界に認められた。
無類の映画好きで、『狂った果実』(56)の音楽を佐藤勝と共同で手掛けたことを機に、映画音楽にも積極的に関わる。代表作に『不良少年』(61)『暗殺』(64)『愛の亡霊』(78)『乱』(85)など多数。小林正樹監督とは初顔合わせの『からみ合い』(62)でモダンジャズを作曲して注目され、以降全作品の音楽を手掛けた。特に『切腹』(62)『怪談』(65)では三味線、尺八、琵琶などの和楽器で構成し、画期的な試みとして注目される。これが67年のニューヨークフィル創立125周年記念の公演のための125周年記念委嘱作《ノヴェンバーステップス》につながり、代表作の一つとなった。『東京裁判』では「僕がこれに音楽をつけるとしたら、鎮魂曲以外にはない」として全9分、7曲を作曲した。1996年2月20日、死去。著書に『音、沈黙と測りあえるほどに』ほか。

  • 西崎 英雄
  • 録音
    西崎 英雄(にしざき ひでお)

1918年8月31日、岡山県岡山市の生まれ。39年に松竹大船撮影所に入所。42年に徴兵され、陸軍船舶兵としてシンガポールなど南方海域を転戦。乗船中の輸送船が二度も撃沈され、両度とも生死の境で救助された。洋上で終戦を迎え、復員後大船に復帰、木下惠介監督に見込まれて録音チーフに抜擢された。小林正樹監督の『息子の青春』(52)で一本立ち。以後小林組常連スタッフのひとりとなる。『人間の條件 第五部・第六部』(61)では監督に無断で邦画初のステレオ録音を敢行し、剛の者の一面を見せた。小林組の『からみ合い』(62)『切腹』(62)『怪談』(65)を通じて武満徹との交流を重ね、現実音、抽象音、象徴音、サイレントの使い方などに独創的な“西崎音響”の世界を築いた。特に音質、音調には厳しく、『東京裁判』のナレーション録音では、佐藤慶の声に合わせたマイク「エレクトロボイスCH-15E」をアメリカから特注。現場では口元からマイクまでの距離をメジャーで計って発声の位置を指定、佐藤慶も終始姿勢を正してナレーションを読んだという。西崎録音は名匠巨匠に評価され、大島渚『悦楽』(65)『少年』(69)、篠田正浩『心中天網島』(69)『沈黙』(71)、小栗康平『泥の河』(81)、黒澤明『まあだだよ』(93)のほか、手がけた名作、話題作は多数に上る。2000年2月21日死去。

  • 小笠原 清
  • 監督補佐・脚本
    小笠原 清(おがさわら きよし)

1936年6月10日、東京市の生まれ。終戦時は9歳で、疎開先の青森県で母らとともに玉音放送を聞く。意味などわかるはずもなかったが、子供心にも死の恐怖からの開放感や安堵感は、身に沁みて感じ取れたという。日本大学芸術学部映画学科卒業後の61年、文芸プロダクションにんじんくらぶに入社。『怪談』で小林正樹監督に師事、次いで篠田正浩監督の『あかね雲』、大島渚監督『絞死刑』『少年』他の助監督を務める。一方、テレビ番組『遠くへ行きたい』シリーズ(NTV)『生きている人間旅行』シリーズ(テレビ東京)、映画・ビデオ作品『東西南北○に候−二宮尊徳の世界−』『吉川英治「三國志」紀行』など多くのノンフィクション作品を手がける。『東京裁判』では監督補佐。脚本づくりには、講談社の社宅(旧吉川英治邸)で小林監督と共にカンヅメ作業で取り組んだ。著書に『映画監督小林正樹』(共編著)、『一枚の古い写真−小田原近代史の光と影』など。

  • 佐藤 慶
  • ナレーター
    佐藤 慶(さとう けい)

1928年12月21日、福島県会津若松市の生まれ。太平洋戦争末期の45年4月から7月まで、旋盤工として戦闘機・隼の部品作りに従事した。戦後、地元で始めた演劇活動が高じて50年に上京。52年に俳優座養成所4期生(仲代達矢と同期)となる。映画初出演は小林正樹監督『人間の條件 第三部・第四部』(59)で、上官の理不尽なしごきに耐えず脱走する一等兵役、続く大島渚監督の『青春残酷物語』では、インテリヤクザを演じて鮮烈な印象を残した。その後一時は東映のヤクザ映画の出演も続いたが、個性的風貌と演技が買われて芸術派監督作品への出演も相次ぎ、高い評価を受けた。小林作品では『切腹』(62)『怪談』(65)『日本の青春』(68)『いのちぼうにふろう』(71)などがあり、常連となっていた新藤兼人監督作品の内『鬼婆』(65)では、パナマ国際映画祭主演男優賞を、大島渚監督『儀式』や黒木和雄監督『日本の悪霊』(共に71)では、キネマ旬報主演男優賞を受賞した。製作が遅滞した『東京裁判』ではナレーション録音が足掛け3年にも及び、その上録音担当の西崎英雄から「前にとった声と今の声は質が違う、もう一度全部やり直したい」とショックな申し入を受けた。『人間の條件』以来西崎録音の志向を承知していた佐藤慶は「ザキさんがそういうなら」と快諾した。『東京裁判』が話題になる時、佐藤慶のナレーションが良かったという声は今も絶えない。また本作が縁となってか、93年に全文朗読CD『日本国憲法』をリリースした。『カイジ 人生逆転ゲーム』(09)を遺作に、2010年5月2日死去。

映画『東京裁判』